今日 2nd

実在の人物および団体とは関係ありません

3月17日「宗教」

1月の後半くらいから、「救い」という言葉をよく口にするようになった。

「救われたい」「救いが欲しい」「何も救われていない」

とにかく救いを求めてさまよっている。

 

ここでいう救いとは一体何なのか。

 

私にとっての救いは「共感」である。

 

「共感」とはすなわち「それは大変だね」と理解を示すことだ。

例えば「仕事が出来なくて怒られる」という話をした時に「怒られるのは大変だね」という共感が欲しい。「そもそも〇〇だから仕事が出来ない」とか、「報連相をどうして忘れるの」とか、「私の会社では」とか、そんなことはっきり言っていらない。

仕事が出来ないことは誰よりも自分が一番認識しているわけだし、この場合は怒られるのが嫌、という感情を吐露しているだけだ。仕事が出来ないという話ははっきり言って話題にならない。

 

同期よりも人事評価が低いのは私のせいだけど、それはわかっているけれど、だけど

 

「君だって頑張ってるよ」

 

ぐらい言われたい。

 

会社からも誰からも認められないまま、肥大した自意識だけが「救い」を求めて彷徨う。

 

「こんな仕事なんかやめて一緒に暮らそうよ」

 

そう言ってくれる誰かの存在をどうしても信じたい、信じていたい。

 

どう考えてもそんなこと思ってるのはイタいし、私はもう24だし、現実くらい見なさいよ、ってなるんだけど、どうしても諦めきれない。

 

家に帰っても一人とか、仕事してても一人、何をするんでもずっと一人で頭がおかしくなっちゃったんだと思う。

 

こんな感じだから本当に結婚しても上手くいかない気がする。